気づかぬうちに

昔の日記を見返していると、その当時は必死にチャレンジしていたようなことが、いまではどうってことなくこなせることだったりする。人間っていうのはそうやって成長していくんだなぁと思う。

歩けもしないところから、世界中を勝手に移動できるようになるんだもんね。可能性って無限大だね。

簡単じゃないから面白い

うまく行かないことが悔しくて、出来ていないことが分かっているから情けなくて、それでも優しくしてもらっていることに申し訳なくて、帰りのバスで思わず泣いた。

 

”悔しいという思いは才能から生じるもの”

という言葉に勇気をもらって、この思いは困難に立ち向かっている証拠だと、自分を奮いたたせる。自分にできること、余裕でこなせること、簡単だと思えることばかりやっていれば、もちろん気持ちも楽ちんで泥沼にハマることもないけれど、そんなことを続けていてはきっとわたしは生きた心地がしなくなるんだろうなぁ。

 

好きなものを食べ、好きなものを着て、好きな人たちに囲まれ、のらりくらりと生きていたところから抜けだして、自分を試そうと飛び出してきたのはわたし自身の選択だし。

来年は、どこでどんな風に自分を試すことになるんだろう。行きたいところとやりたいことは決まっているから、その通りに進んでいるといいなぁ。

 

 

ワーホリ後半戦

ワーホリに来たら、日本語はあんまり話さないぞ!ネイティブと仲よしになる!なんて意気込んでいたくせに、とっても日本人の方々にこれでもかというほどお世話になりまくっているし、日本人ブランドにも救われている。母国を離れて異国に来ているくらいだから、とにかく行動派なひとばかりで、理想がしっかりしていたり何かを突き詰めていたり、おもしろいひとが沢山いるなあとつくづく思う。国外に出てみると日本にいて出会いたいと思っていたようなひとたちに簡単に巡りあえてしまうから、たとえその国のひとたちだけじゃなくても色んな可能性があってたのしいね。そして、オーストラリアは本当に多国籍だから、日本にいて日本人ばかりで日本語しか話さない環境って、良い意味でも悪い意味でもすごくレアだなと感じる(電車に乗っていたら5ヶ国語くらい聞こえてくるのが当たり前だし)。

 

ワーホリをしてみて、色んな人に出会うと、そのたびに自分の話をするし、そうやって話をすると常に自分がなにをしたいんだろうって考えさせられて、自分の考えを見直したり新たな考えが芽生えたりする。

今のわたしは、プロフェッショナルの仕事をしているくせに、常にベストで納得行くまで、っていうスタイルからやっぱり逃げてるなって感じさせられた。わたしがあなたのベストを作るから!って責任持ってやるのこそプロなのに。まだまだ自信もないし、だからいつでも来てねなんて言えないんだもの。半端なのは自分が一番分かってる。思ったことを飲み込んで、遠慮して、そんなことしてたら自分は成長しない。分からないなら分からないよって伝えて、しっかり分かるまでやろう。恥ずかしいとか格好悪いとか逃げてる場合じゃない。今年の目標に"素直になる"と”自分に勝つ”を追加。


ワーホリ前半に出来なくて悔しくていやだったことを後半でやる。挽回する。

どう見られるかどう思われるかを気にして100%の自分を出せずにいるなんてもったいない。個性をさらけ出していかなければ伸びないし受け入られも拒まれもしないのに。つまらない人間になりたくないくせに、万人受けするようななんでもない人間を装うとしてるんじゃないの

 

Non meat eater

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メルボルンに来て、食に対する意識が変わった。来てからというか、とある映画を観たからと言うべきかも。

食肉についてをテーマにした、ドキュメンタリー映画。観ているうちに色んな想いで涙が溢れて止まらなくなって、もう動物を食べたくないと思った。ベジタリアンは身体に悪いだとか、そういうのはお金稼ぎのためのデタラメだと思う。中学のときは米と肉ってくらいに、お肉ばっかり食べていたけど。


わたしは魚はたまに食べるので、いわゆるノンミートイーターらしい。たがしかし、日本人の性なのか、わたしが弱いだけなのか、いまだに大勢の場でベジタリアンなのでお肉を食べられませんとはっきり断ることが出来ない(みんながフライドチキンにかぶりつく中、そっと付け合わせの千切りキャベツを頬張る)。
本当は、料理されたお肉も怖く感じるようになった。焼かれた匂いもきつい(キッチンにある骨付のお肉なんて特にね)。皿に乗っていても、生きているところが頭に浮かぶ。でも、この感情をみんな持つべきなんじゃないのかな、それが命を戴くということじゃないのかと思う。生きていた動物の命を頂戴してまで、自分が生きるんだから。ありがとうって、頂きますって、ちゃんとしないと。

動物、環境、健康のことを考えたら、やっぱりわたしはノンミートイーターでいたい。お肉を食べるのが悪いとかではなくて、たまには食べない日も作ったらどうかなと思うわけだ。

確実にメルボルンは食への意識が高いのは事実。カフェでもレストランでも、ベジタリアンやヴィーガンの選択肢があるのがふつう。日本にいたら健康マニアだとか変な目で見られる可能性あるよな〜とつくづく思う。自由でいいじゃない、ね。有名人だってけっこうベジタリアン多いのよ。

 

 

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オーストラリアに来ることはわたしにとってそれほどハードルの高いことではなかったから、バリスタの経験もなく英語も話せないくせに、ぽんっとパッションだけを持って飛び込んできてしまったわけだけど(周りのひとに一大決心だったでしょうと言われてもあまりピンと来なかった)、今回のことは自分の想定外のところだったから、少し怖気づいている。

けれどわたしがこれから先にやりたいと思っていることはもっともっと大きなことで、これくらいのことでびびっていたらどうにもならないし、下準備はされている分、ステージは整っているわけで、日本とアイルランドにいてもどうせのうのうと暮らすであろうことは目に見えているし。

これにチャレンジしたら面白い人間になれるんじゃないかなあ、ふつうの選択肢じゃないよなあ、と考えていたらもうとりあえず受けてみるかって思う。タイミングの良さも、飛び込むことで得られるであろう経験も繋がりも、どれも”行け”と言われているような気がしてならない。後先を考えずに自分勝手に行動出来るのなんてきっといまのうちだけだし、なにも守るものがない分、行動力だけはあるもんなあ。

 

手助けしてあげたい、一緒に仕事がしたい、そう思ってもらうにはやっぱりわたしの経験とスキルをひたすらに伸ばすしかないもの。


先に調べてやってみて悩んで考えてくださったひとの情報は遠慮なく頂いて、吸収して、その先をわたしがさらに切り開けるように。

 

 

 

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高級車もブランド品も、他人に見栄を張るための道具ならいらない。贅沢をするのはたまにでいい。その”贅沢”というのも、わたしにとっては家族や友人との時間だったり、おいしいものを食べること、お気に入りのカフェでおいしいコーヒーを飲むこと、古着屋さんに行くこと、あったかい布団でゆっくり寝ること、のんびり本を読むこと、映画館に行って映画を観ること、っていうようなことたち。

 

自分の心を満たしたら、周りがよく見えてくる。

そういう時間を大切にしながら、理想の道に進んでいきたい。目の前にあること全部、自分のチャンスに変えてやる。

 

いつも夜中にふつふつとやる気が湧いてくるから、そのやる気を保存しておいて朝の目覚ましの音とともに身体に取り入れる装置、そろそろ作っていただきたい。